人との距離感がちがうのか

子供の時、私はあちこちの人の家に遊びに行っていた。

自分はあちこちの人と遊んでいるつもりだったが、そうでは無かったらしい。

 

人の家に行っても、人の家のおもちゃで遊んでいるだけで、人には全く関わっていなかった、と親はいう。さぞかし変な子だと言われていたに違いない。

 

「友達は喜びを2倍にし、悲しみを半分にする」と小学校の先生には色紙に書かれるし、本人も気にしないわけにはいかなかった。かといって、本人は人と遊んでいないつもりはない。だから「友達」と言われてもどうすればよいか理解しようがなかった。

 

また、他人には、朝、昼、夕方で話しているグループが違うと言われた。ということは、一つのグループにいなくてはならないのか。

 

そんな話を気にして、どこかのグループに決めて、後ろからついていくと、金魚のふんみたいについてくるな、という。短時間話すならまだよいが、長時間一緒に話すとか行動するということが出来なかったから、黙ってついていく時間が長くなる。

 

いじめられがちな子と一緒に行動しようとしたこともある。しかし全く関心のある遊びが合わず、合わせようとしても結局1日でうんざりしてやめた。

 

中学、高校、大学と経ると、相手が心が広いのか、一緒にあまりいないから変とか、逆に別のグループと話しているとか言う子はいなくなってきた。長時間べったり、他人といると苦痛なのは変わらず。顕著なのは修学旅行の類で、寝られないせいか、熱っぽくなったり鼻血出したりで大変だった。そのため、押入れに入りたいと半分話のネタ、半分本気で言っていた。

 

社会人になって年を経ると、周囲が家族持ちが増えたからか、シェアハウス的な民泊が日本でも増えたからか、べったりした人間関係がなくても誰にも気にされなくなり、大丈夫になってきた。

 

もっとも、結婚するには相手とはべったりいても平気でなくてはいけないんだろうし、私のような人が増えたら社会的に困るとは考える。

 

ただ、どうしても人とべったり関われないからといっても人生をやめることはないだろう。私は何らかの別の形で社会に還元しなくてはならないと思うし、そのようにすることで罪滅ぼしでもしようと考えている。